主水日記。
この夏の連続TVドラマ群は、「下北サンデーズ」も含めてどこも相当な不人気、低視聴率が目立つ、とあちこちでよく耳にする。
なぜだろう、とこの夏休み中、あれこれ考えつつ、ぼんやりと昼間や夜のTVを眺めていた。(ついでに、先週までの留守録で見忘れていた分も若干、消化してみた。)
面白そうな人物達が、あんなにはしゃいでいるのに、なぜ???と。
そして、ある疑惑にたどりつき、愕然とした。
もしや、そのメインキャラ独走式、はしゃぎまくりの演出こそが、多くのドラマが視聴者(どの時間帯も今は女性層がかなり厚いはず)に「パス!」されてしまっている、最大の要因なのではないのか!?と・・・。
それこそが一般的ドラマ視聴者達にしてみたら、身勝手でひとりよがりに見えてしまい、ドラマ演出・表現の中に自分達との明確なとっかかり、交差点が見出せない、という一番の要因になっているのではないのか?という強い疑惑、である。
主婦向けドラマでは「渡る世間は鬼ばかり」、時代劇では「水戸黄門」が、いまだに驚異的支持を集めて制作され続けている背景には、勿論、家族や親戚をめぐるトラブルや、理不尽なワル商売人やお役人様?に対する生活者としての反感、といった(ことに日本の社会では)普遍的なテーマが扱われているから、という強固な前提条件が存在している。
この状況を踏まえつつ、後発の番組群がその強固な存在感を乗り越えてゆくのは、確かに容易なことではあるまい。
そういう状況で言えば、昼ドラマ枠の「大好き!五つ子GOGO!!」(注1)や「新・キッズウォー2」、富豪旧家の裏切り合いメロドラマ「美しい罠」なども、最早<常道>の表現パターンが完成しきっており、そこから逸脱するものは少しも見られない。
泣き役・宮崎あおい主演の「純情きらり」にしても、NHKの朝ドラマによくある戦時中哀話の定番路線だが、味噌倉のおかみ役・戸田恵子のいい意味でけたたましい、舞台芝居そのままの猛演が無ければ、ホームドラマ部分のイメージを到底牽引しきれないだろう。
おそらく作る側も観る側も、むしろその常道パターンをこそ連続ドラマに求めており、あまりパターンを裏切っての展開は望んでいないのだろう、と容易に想像出来る。
いってみれば長寿シリーズだった「ゴジラ」や「寅さん」、今で言えば「釣りバカ日誌」に近いのだろう。
よく言えば安心して観れるが、悪く言えば保守的になりがち、ともいえよう。
登場人物が毎回チャチなドタバタをハイテンポで繰り返し、<主役>のモノローグ視点が中心に据えられていることでは「下北サンデーズ」と一緒のはずの「我輩は主婦である」はその点、興味深い工夫がなされていて、実に面白い。
従来の昼ドラマのわかりやすさとコミカルさの土台に、主人公のはずの主婦が人格ごと作家・夏目漱石(!)に入れ替わる、前代未聞のSF的主役人格交代(しかも、たまに戻る・・・)という仕掛けにより、男性が主婦の視点を徐々に理解してゆく、それを周囲の主婦や記者が眺めなおす、という<視点の多重化>が、あまた存在する平板な印象の連続ドラマから、このドラマに一線を画させている。
後半部で明かされる、手紙の多重奏騒動など、抱腹絶倒もので、モノローグ・ナレーションも含めたドラマ表現の多重構造が大いに効果を挙げている。実際この準落語調コメディー手法は1時間ドラマよりも、毎回30分切り替えの帯ドラマにこそ向いている。
テレ朝系の北大路欣也版「子連れ狼」、あるいは同じ北大路主演の「大岡越前」といった時代劇群にしても、基本形は従来からあまた制作されてきた市井の人情ドラマ路線を、更に繊細な画面の切り取り方と催涙的?表現により強化したものなのだ。
「新・桃太郎侍」には是非、その一歩先の、活気ある表現を期待したいものだが・・・。今のところ真っ赤な服で暴走してるあんちゃん、といった印象。
昭和・平成初期の展開を経て自己再生産を繰り返し、ネオ・スタンダードとも呼びうる型を編み出したウルトラ・ライダー他のSFアクションドラマ群にも、まだまだ常道を見据えつつ<一歩先>の表現を示しうる余地は十分にある、とみる。
「ウルトラマンマックス」では特に中盤以降、大胆かつユニークな飛躍が顕著だった。
続く「メビウス」では<過去作品つながり>の縛りが「マックス」よりもやや強いが、その中で<夢のカード対戦>を行ないつつ、新隊員達各人のドラマを巧みに構成して、まずはちゃんと現代の<職業人ドラマ>として見せている。
本当は、かつてのように大人向きのアクションドラマ枠が一杯あって、空手ものとか、バリエーションがもっとある状況下で異色作が出る、というのが理想なのだが、それは無いものねだりなのだろうか・・・?
「ボウケンジャー」で宝物を守るブルーの元相棒の国際スパイ男(裏切り者で皮肉屋で、嫌な奴!)が「自己満足じゃないのか?」と責めたてるきっつい回など、善悪がはっきりしないゲストキャラが子どもにわかりにくいのでは、と少し心配になった。
(しかもこの回、レンジャー達の指令者まで彼等を信用していない!ひでえな・・・。)
あのシビアな展開パターンこそが本来、大人のアクション・ドラマに不可欠な、醍醐味そのもののはずなのだが・・・。
こうした話を述べてきたのには、それなりの理由がある。
映画やTVドラマの面白さ、というテーマ関連で、視点を揺さぶられ、どうしても一言ずつ述べておきたい、だがしかしその描写力のユニークさを既述するのがある意味、非常に重荷になるだろう、と感じているTVドラマシリーズを3作、部分的とはいえ観たからに他ならない。
その3作とは、
TBS系で再放送中の「ドラゴン桜」、
同じくTBS系放映・毎日放送制作の昼帯新ドラマ「がきんちょリターンキッズ」、
およびフジ・関西テレビ系放映中の「結婚できない男」。
3作のTVドラマ群に共通しているのは、決してひたすら甘い人情路線のありがちな典型に陥りすぎることなく、むしろそのベースへの批評・批判といったクールな視点を持ち、一度登場人物たちを厳しくつきはなし、その批判的視点を踏まえた上に、ドラマの展開と笑いを生んでいることであろう。
成立状況が<一歩踏み出して>いるのだ。
そうなる程に、従来の古典的人情芝居式ドラマは、今のTVドラマでは条件つきでしか、成立しがたくなってきている。
正直言って小生自身は、これら3本のドラマの内容に全面的に賛成、という心境にまでは、残念ながら達しては居ない。
「西遊記2」のお坊様じゃないけれど、人間不信のドラマ性がシビアすぎて、とてもじゃないが悟りが開けない、とでもいうべきか。
「ドラゴン桜」についていえば、社会的競争は何でも強健さと要領だ、とか、クズで負けてくやしい思いを知るから勝とうとするんだ、といった、阿部寛の弁護士兼教師の指し示すいかにも受験先生式のリアルな生活観念にはかなり、反感も抱いているし。人間の本音をひっぺがす高校生兄弟断絶のシーンなどには心底、げんなりさせられる。
(昔、似たようなお説教をする塾講師の話をラサール石井著の本で読んで、とてもいやーな感じがした。ああいうのって、必ずひきずる。)
「がきんちょリターンキッズ」では、アイドル・子役業界のシビアさやら口さがない小学生達の暴言やら相方女優の無神経さやらに、またこれかとうんざりし、大いなるな不快感を得て、初回から随所で吐き気がした。
負けん気の強い者しか、勝ち残れない世界の話だからだろう。
(だから俺は子ども作らねえんだ、と「必殺4」の主水ならぼやくんだろうが。)
「結婚できない男」のホーム設計技師・阿部寛と外来女医・夏川結衣の独身コンビを周囲があれこれ勝手に評して揶揄する台詞にも、全部ではないがところどころで、それ、当人達には余計なお世話なんじゃないの?と感じてはいる。
しかしそうした反感と同時に、これらのドラマ、じつに見どころ満載で、実際面白い。
「ドラゴン桜」では、阿部教師の超人的かつあからさまな、現実的問題対処法のドライぶりが最大の見どころになっている。
「教師はサービス業」と割り切っている、呆れるほどの思いきりの良さは、受験トレーナーとしての自信にあふれた実効主義からきている。しかも法律にも詳しいのだから無敵状態。
高校生達や女教師とのやりとりなど、もう一歩踏み出せば喜劇そのものにすらなりうる要素をもはらんでいる、こういうドラマがつまらないはずはない!
さらには、受験知識の教え方のうまさ。古典小説の含み持つエロ度を教える寺田農の先生!なわとびみたいな模型で解説する科学教師!これは確かに受験生の良き参考になるだろう。
あえて不満を言えば、阿部があまりにも無敵すぎるため、長谷川京子や高校生達の生真面目な言動に一瞬だけたじろいてみせる芝居が、あまり喜劇的効果になっていないところだろうか。
<らしくない>からだろう。
「がきんちょ・・・」では設定こそ一応SFファンタジーだが、お話の本質はグロさの一歩手前のほどにリアルである。
子ども時代の町(1988年頃らしい)にタイムスリップしてきた主役・辺見エミリの女優マネージャー(ウエディングドレスのまま木造の教室に!)が、過去の自分とアイドル時代の元相方に出会ってしまう話で、始めから主人公自身をめぐる視点の多重化、客観性強化がもくろまれている。
過去の自分と成長した大人の自分が、同じ時空間に存在するのは果たしてありか?といった、そこらへんのタイム・パラドックスはややアバウトな解釈になっている。
後に因縁の相方になるはずのやや口のきっついアイドル少女と<ダブル主人公>が演じる、ツッコミ漫才のごとき批判・皮肉交じりの対話ぶりが、ちょっと笑える。
目の前に実の娘が<2人>いると気づいているのか、いないのか?微妙な父親のシビアだが同時に彼なりのやさしさにあふれた台詞、彼の行動の風来坊的破天荒ぶり、なども芝居の見せ所。
「逃げてるんじゃないの?」式の一部お説教台詞に「ドラゴン桜」と同様の<ダービーホース式>勝ち抜き戦の本質を垣間見てしまい若干不快になるのと、全体にどのキャラも少々、けたたましすぎるきらいはがあるのだが・・・。
過去の歴史に介入しようとして結局、過去の路線通りに自分や相棒を導いてしまう辺見キャラには、半ば同情しつつも苦笑、哄笑してしまうのだ。
えらそーな口ばかり利く自信過剰のライバル金満少女にも、苦笑させられる。
「結婚できない男」ではこうした土台の上に、生活感覚上の各人による<認識のずれ>が、大いに笑いを生む。
半ば同情(一部共感を含む)しつつ苦笑、哄笑させられるあたりも、前述の2本と似ている。
ただし、こちらはけたたましい笑いのゴリ押しを避け、比較的にゆっくりしたテンポで、状況の喜劇を余裕たっぷりに見せてゆく。
「ドラゴン桜」では題材の故からか本筋を妨げぬ程度に抑制されている笑いの要素が、ここでは画面編集によるテンポの作り方、芝居の間のとり方の妙により、相当に理想的な形で開放されている。
主役の本音丸出しなミもフタもない突発的暴言?の数々も、周囲の人物達の軽い批評的言動により半ば客体化されていて、そこから笑いが起き、決して過度の不快感を形成しない。
(隣にいきなり、あんなに偏屈な人物がやってきたら、そりゃ誰でも当然戸惑うだろうが・・・。)
一例を挙げれば、阿部寛の設計技師がいざ、外出せんとしてドアノブに手を掛け、ふと食器の汚れが気になって2段階で立ちどまり、すぐ次のカットでは食器を泡立てて洗っている、それだけのシーンがとても可笑しい。特に可笑しいことをやって笑わせよう、と身構えているシーンには見えないのにもかかわらず、可笑しい。
これはもう絵で観る落語の世界、とでもいおうか。
夏川結衣の半分戸惑わされてひきつった?固まり笑顔が、笑いを更に強化していることは言うまでもない。
高島礼子のプランナー紹介業者が、仕事に彼流の信念を持ったプロたる阿部技師の本質を一番、理解しているはずなのだが。
ロマンス方面となると、それはまた別な様子。
阿部寛、大柄大振りな動作が、ちゃんと軽みと笑いに転化されている。立派。
小柄で元気一杯な国仲涼子の後ろにぬっ、と立っているだけで、なんとなく可笑しい。
「トリック」の学者の延長上にある<凝り性・通人・マイペース>キャラクターを、女性向けドラマの世界に放り込んだ時点で、このコミカル・ドラマの成功は半ば約束されていた。高視聴率なのも当然だろう。
(ライフスタイルを模索している独身男女層が相当、注目して観ているのではないか?)
これで後、歌って踊れたら、もう植木等?とさえ思わせる。
以上の話は、観る者にとって面白い映画とは何か?という事とも密接につながっている、とみなしてよかろう。
(台詞第一のドラマと映像優先の映画とでは<肝>が大分違う、という事も当然あるだろうが、ここではひとまず置いておく。)
勿論、これらの3大ドラマと同じ事を皆がやれ!という事ではなく、題材の料理法と俳優の特性を一度クールな視点で見つめなおしてみれば、それまでの<定番>イメージから一歩踏み出し、はみだした面白い作品像が見えてくるかもしれない、という話を、ここでしておきたかったらに他ならない。
昼ドラ、夜ドラ、ともにまだまだ、何が出てくるか、あなどれないのだから・・・。
当然ながら、映画においても。
そこにこそ正に、観る楽しみは在る。
以上。
(注1)そういえば、「ハングマンGOGO!」って最終シリーズがあったよなあ。
ハードさが衰退して、かなりバラエティー寄りになっていた。
[夏・はみだし・シネマクラブ4]の続きを読む
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- 2006/08/07(月) 13:23:38|
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