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シネマ旅の途上にて

自主映画ウォッチャー、アWorkerのブログ。

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ビーグル警部の昭和

主水日記。


大阪万国博が1970年、すなわち昭和45年。小生はまだ小学2年生位だった。
「帰ってきたウルトラマン」と「仮面ライダー」スタートが4~5年生頃だから1971年、昭和46年。

太田達也監督(つみきみほを真っ赤なかつらで撮った「OTV」を監督)の半ばATGめいたファンタジックSF「REM」が旧文芸座GW限定公開で話題になり、風間志織監督(後に「冬の河童」予告編で自ら河童姿を披露した)の「0X0(ゼロカケルコトノゼロ)」がPFF方面で公開されたのが・・・1984年頃。つまり昭和59年前後。
当時自主映画は概ね皆、8ミリか16ミリフィルム撮影で音声はアテレコだった。まもなくビデオ撮影の作品本数が次第に増え始めた。
小生が映画ファンに本格シフト開始したのがその前年くらいだから、もうかれこれ、21年程になる。
以上を大体、念頭に置いて戴きたい。


そういう目で見ると山崎貴監督の「ALWAYS三丁目の夕日」は同じ<昭和時代>でも30年代の東京タワー近辺だから自分達より約10年程前、お兄さん世代。
高度成長、<金の卵>世代の集団就職などはリアルタイムでは知らない。もう、時代劇に近い。
でも駄菓子屋やおもちゃ屋は40年代もああいう感じのが小学校の近所などに結構あった。SLや寝台特急の人気もかなりあった。
都電やトロリーバスは40年代中頃までは大通りを走っていた。日本橋・人形町あたりを父の青いトヨペットに乗って通ったら、地下鉄工事(多分日比谷線か東西線、都営1号線あたり)で路上に四角い模様だらけの鉄板が張られ、その上に都電の線路が敷かれていた。


深川栄洋監督の「狼少女」は神社の祭りや子供達のセーター、ランドセルや筆箱、HB鉛筆の空ケースなどから判断するに多分、昭和40年代くらいの地方の町。この辺がリアルタイムだろう。
どうでもいいことですぐ冷やかすいじめっ子も、実際によくいた。でも皆、先生の云う事はおおむねよく訊いていた。
たまに友達と無断で学区外へ探検に行って、バレて怒られたりもした。
巡業の見世物小屋はあいにく見ていないのだが。
TVに<東京タワー蝋人形館>のCMがかかっていて「あれ行きてエ!」と親にねだった。あれへ行ってシャワー上がり?姿のくるくる回転するマリリン・モンロー人形を知った。


2本の<昭和>映画を比較するに、「ALWAYS三丁目の夕日」はかなり、涙と笑いのベタなエピソードが多い。それと基本的に子供ではなく大人の視点からそれぞれの状況が語られているのが特徴、といえる。勿論子ども目線のエピソード(親探し)も一部にあるが。

正直に言えば、ノスタルジー・イメージに大幅に寄りかかっている感じがした。
「あの頃は・・・」という、小生ですら逃れられない郷愁。
その時代を直接には見ていないはずの小生ですら、つい貰い泣きさせられてしまう。
平日のお客さんは小生より年上(おそらく集団上京世代の夫婦など)が多かったが、若い人々もちゃんと普通に反応して喜んでいる。
黄金期の日本映画がおそらく持っていて、いつしか時代の空気に合わなくなり半ば<無効化>してしまっただろう種類の感情の流れが、断片の羅列としてだが確かに、ここには暫時蘇ってきている。
「リターナー」「ジュブナイル」等の国産CG主体SF映画群にとっての弱点は、<アメリカ映画の後追い>的印象のハンデもあったが、画の進化にドラマがついていっていない、何かとアンバランスな印象を与えやすかった事。
しかし今回は<昭和再現>という予想外な落としどころを得て絶妙、好調だ。お見事、という他無い。ああいう<空想未来小説>的イメージを出しゃばり過ぎず少なすぎず出すのには最適の方法だろう。

茶川先生役には若いんじゃ?と当初心配した吉岡秀隆が好演。子役俳優(同居人役)とコンビで演技賞を差し上げたい。SF漫画、擬似家族、小雪とクリスマスの話などが特にいい。心憎いばかり。
「逆境ナイン」ではキャラが「?」だった堀北真希がこちらでは元気ハツラツ上京娘をコミカル力演。こういう使い方もある、という見本。
堤真一の社長、唖然とするハイテンジョン怒りで茶川達と大ドタバタ。あの形相で迫ってきたらそりゃ、逃げる。そばにいたら、迷惑キャラかも・・・。


トリウッド短篇上映組出身・深川監督初の長編「狼少女」では、そういった郷愁のみに寄りかかる視点は最初から本質的に回避されている。
作り手達がリアリストなのだ。
ビデオもコンピュータ・ゲームも携帯電話も無い。子供たちがダイレクトに接するしかない環境。
ドラマ内の目線はあくまでも子どもたち中心に徹底され、つむじ風のような転校生少女とやや気弱な主人公少年、地味目少女の3人を中心にこども達同士の貧富、男女の差異、寄り道禁止違反、親の離婚疑惑、誤解といざこざ、村八分(男子もはやしたててるが女子のは特に嫌だ!)、状況転換、クラスルームでの責任追求合戦(ほんとうに嫌・・・!)、苦しい弁明と擁護、和解などの過程が人間ドラマとして、きわめて冷徹かつ丁寧に描かれてゆく。
脚本(大見全)の心理描写に一本芯が通っているのだ。
子供時代ゆえの無邪気さと残酷さ。
観ていて何ともやりきれなくなる。人間という生き物への諦念。
落とし穴の景など、観ていて心から「この悪ガキめ!ざまあみろ!やっちまえ!」と言ってやりたくなるのだ。(おおコワ、の声)
男の子の専売特許かと思っていたが女の子も落とし穴掘りをやっているようだ。男の子がしぶしぶつきあっているのに苦笑させられる。

当然の結果として、笑えるシーンが後半少なくなったのが難点だが・・・。
後味が悪くなる事はかろうじて回避され(ナイスだぜ先生!)、ある感銘がもたらさられる。

こどもやその父兄が一番観るべき内容なのに、なぜこれが新宿で昼間でなくレイトショー公開のみなのか?疑問に感じる。
初日舞台挨拶で子役達より「本日は、寒い夜にもかかわらず・・・」「遅い時間にもかかわらず、ようこそ・・・」等が連発され、場内が爆笑になったのは皮肉なものだ。
昼間のプログラムがグロい猟奇シーン一杯のアダルトな昭和幻夢譚集「乱歩地獄」なので、余計に不思議な感じがした。昼夜が逆なのではないか。


短篇4本から成る「乱歩地獄」は、少し後の平日に観た。
客席に浅野忠信ファンらしき女性層が目立っていた。

最初のアイスランド・ロケの1本がほぼサイレントでかつ字幕もなし。池の前に裸で立っていたり、暗闇で女とレスリングしていたり。何が何だかさっぱりわからず、ただひたすらに困惑した。
2本目は<ウルトラ>常連・実相寺昭雄監督が古都・鎌倉を舞台に<鏡の間>セットを多用。独特、というかおなじみのぐにゃぐにゃした異空間を構築、サスペンスを盛り上げている。成宮の青年鏡師にもう少し神秘性が欲しいところ。
3本目、<芋虫>のエピソードが痛々しく、少し気持ち悪かった。二十面相がこんな、美的サイコ野郎だったとは・・・。
最後の1本、浅野忠信のあたふたぶりに若干の可笑しさ。女性ファン達からも苦笑が漏れていた。緒川たまきは後半オブジェと化してされるがまま、さぞやおつらかった事だろう・・・?


2005年、平成17年冬、昭和は遠くなりにけり。
そして、子役達は・・・あなどれず。


以上。















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  1. 2005/12/16(金) 22:42:44|
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